LOGIN藤原の屋敷へと肉薄するにつれ、その輪郭は威圧的な質量を伴って瑞礼の眼前に迫り来る。
城郭のごとく門を出入りするのは、屋敷の者だけではない。麻の粗衣を纏い、腕に藁の守り紐を巻いた男たち。瑞礼と同じ、この奥州の土に生きる蝦夷の民だ。
彼らは背丈よりも高く薪を積んだ橇を引き、門番の前で卑屈に頭を垂れ、その巨大な怪物の胃の腑へと、咀嚼されるように飲み込まれていく。これほどの巨館を目にするのは初めてだ。
だが、胸の奥で疼くのは驚嘆ではない。古傷を無理やり抉られたような、忌まわしき既視感だった。――あの、腐った都の匂いと同じだ。
かつて中臣国子に伴われ、御所の門を潜った朝の記憶が蘇る。
天を遮る高い塀。権力を誇示する長い回廊。瓦の縁で鈍く光る金具。門に掲げられた紋。道の端で泥に塗れ、権力者に怯える者たちの視線。 土と人の体温と、政という名の欲望が澱む場所特有の、あの吐き気を催すような脂ぎった息苦しさ。 今、目の前に広がる屋敷の内にも同じ濁りが充満している。瑞礼は道の正中を避け、人の目につかぬ雑木林の縁を影のように進んだ。
枝に積もった雪がぱさりと落ち、肩口を冷たく濡らす。その冷たさだけが、辛うじて意識を澄ませてくれた。屋敷の裏手、土手の上に立つ巨木の欅。その幹の陰に身を隠し、瑞礼は塀の向こうを窺う。
雪化粧をした松や梅の梢。葉を落とした楓の骸。奥には入母屋造りの豪奢な寝殿の屋根が見え、その向こうに低く長い――どの棟の、どの闇に、緋宮は繋がれているのか。
問いかけた瞬間、胸の内の小鈴が、一際強く跳ねた。
しゃらん、と。 それは空耳ではない。確かに、屋敷の内側から、呼応する響きがあった。<――ガァンッ! 瞬いたまぶたを開いた刹那、火花を散らすような衝撃が腕を貫き、骨の髄までを激しく揺らした。 視界を埋め尽くしていたはずの静寂な雪の白は、瞬く間にどす黒い土煙と、噴き上がる血の赤に塗り替えられている。 瑞礼が跨っている栗毛の馬が、泥濘を蹴って高く跳躍した。手の中にあるのは、血と脂に塗れ、鈍く光る一振りの蕨手刀。その鉄の重みが何よりも頼もしく手のひらに馴染んでいる。「――怯むな! 押し返せっ!」 自らの喉から迸った怒号に、瑞礼自身の魂が震えた。 内股で馬の腹を強く締め、手綱をさばく。人馬一体となって風を切るその感覚。濡れた獣の放つむせ返るような熱い体温が、股下から自身の鼓動へと直接伝播していく。 ここは御影山の麓。雪解けの泥濘が残る広野のただ中を、瑞礼は疾駆していた。 背後には瑞礼と同じく、軽快な皮革の鎧をまとった騎馬の同胞たちが続く。彼らは風のように、そして飢えた狼のように泥を跳ね上げながら平野を自在に駆けていた。 目の前には、重厚な漆塗りの甲冑を纏った朝廷の歩兵が壁のように迫る。無機質な鉄の塊のようなその圧迫感。数で勝る彼らは、この北の地を力で踏み潰そうと隊列を組んでいる。 だが、馬上の瑞礼は恐れなかった。「鉄の棺桶に入って、随分と窮屈そうだな」 高い視点から敵を見下ろし、唇の端を吊り上げる。「蝦夷風情がぁっ!」 朝廷兵が直刀を振り下ろす。その動きは泥に足を取られ、ひどく鈍重だ。 瑞礼は馬の首をわずかに傾け、回避と同時に蕨手刀を閃かせた。湾曲した刃が、吸い込まれるように敵の甲冑の隙間へと滑り込む。 肉を断ち、骨を削る湿った感触が腕に伝わる。 鮮血が噴水のように飛沫を上げ、泥混じりの大地にどす黒い花を咲かせる。兵が崩れ落ちる断末魔を背後へ置き去りにし、瑞礼はすでに次の獲物へと切っ先を向けていた。 馬の腹を蹴る。栗毛の巨体が雪泥を激しく跳ね上げ、肉と風の塊となって敵陣深くへと突っ込む。 蹄が
木戸の奥、分厚い格子を、秀衡の兵らが二人がかりで引き開ける。 瞬間、冷え切った石室から、灼熱の暴風が吹き荒れた。 音を立てて熱気が噴き出し、庭の雪が一瞬で舞い上がる。瑞礼は思わず腕で顔を覆った。「――っ、緋宮様……!」 灯明の揺れる薄闇の底。そこに緋宮はいた。 その姿は、壮絶の一言だった。 首と両手首、そして胴に巻かれた鉄鎖は極限まで張り詰め、石壁に打ち付けられた楔が今にも抜けんばかりにきしんでいる。 白い肌には赫々たる鬱血の痕が走り、鎖の金具が食い込んだ箇所からは鮮血が滲み、白衣を無数の朱い斑点で染め上げていた。 緋宮が肩で息をするたび、喉元の鎖が悲鳴のような音を立てる。 乱れた銀髪の隙間から覗く金紅の瞳は、爛々と燃え上がり、理性を焼き尽くした獣のごとき殺気を放っていた。「……瑞礼」 瑞礼の姿を認めた瞬間、緋宮の瞳孔が開いた。 そこにあったのは、破壊神としての怒りだけではない。魂を削るような安堵と、切迫した焦燥。愛する者が無事であったことへの歓喜と、敵の手に落ちていることへの絶望が混ざり合っていた。「逃げろ……! そこから離れろ!」 緋宮が身をよじり、再び鎖がと石壁を打ち低い音を響かせる。壁に亀裂が走る。 互いに手を伸ばす。 だが、指先は虚しく空を掻くだけ。 鎖に引き戻される緋宮と、槍衾に阻まれた瑞礼。わずか数間の距離。走れば一瞬のその隙間が、今の二人には天と地ほどに遠く、残酷に隔てられていた。 秀衡は愉しげにその様を見下ろした。「見よ。あれほど静かだった龍が、お前のために身を削っておるわ」 そして、顎をしゃくって泥傀儡に進めと合図した。「行け。龍神の花嫁よ。愛しい夫の胸に抱かれるがいい」 傀儡がぐじゅりと音を立てて、祠へと歩みを進める。 緋宮の顔が、凍りついた嫌悪に歪んだ。 人の似姿を
瑞礼は乱れた呼吸を整え、静かに傀儡を見据えた。 左肩に刻まれた徴が、いまも衣の下で脈打ち、熱を放っている。その熱が瑞礼の全身を流れる血を清め、秀衡の放った毒や泥の冷気を焼き払っていた。 魂の芯に、緋宮が楔のように打ち込まれているのを感じる。 「俺のものだ」と告げたあの傲慢なまでの響きが、瑞礼の足元を支える揺るぎない理となっていた。 瑞礼は、目の前で身悶える泥の似姿へと手を伸ばしかけ、そして止めた。 その眼窩から溢れる黒い泥は、主への愛と、報われなかった忠義を汚された、女たちの涙に他ならない。 彼女たちをこんな姿にまで貶め、かつて淵に流れていた穏やかな時間を泥で塗り潰した秀衡の所業。 それを想うとき、瑞礼の胸を支配したのは、逃れ得ぬ絶望ではなく、深く、静かな憐憫だった。「……秀衡殿」 瑞礼は冷ややかな視線を広間の主へと向けた。その声は、自分でも驚くほど低く、凛とした重みを伴って広間を震わせた。「あなたは言いましたね。緋宮様が愛さなかったから、あなたが愛してやったのだと」 瑞礼は、畏れに震える泥人形を指し示した。 「これが、愛された者の姿ですか。ただ呪いを詰め込み、苦しみを縫い合わせただけの、動く牢獄ではないですか。……緋宮様は、こんな残酷なことはなさらなかった」 広間の空気が一瞬にして凍りつく。兵たちは槍を構えることも忘れ、瑞礼から立ち昇る、淵の奥底を思わせる清冽な威圧感に圧倒されていた。 それはただの俘囚の若者ではない。龍神の痕をその身に宿し、その半身として選ばれた真の花嫁の威光だった。「黙れ……」 秀衡の声が低く唸る。慈しむような笑みが剥がれ落ち、その瞳にどす黒い殺意が宿り始めていた。 「小賢しい真似を。龍の欠片ごときに護られた程度で、儂の術が破れると思うなよ」 秀衡が印を結ぼうと指を動かした、その時――。 ずずず……っ。 遠く、地の底から響き渡る振動が、屋敷全体を揺るがした。 地震ではない。もっと局所的な、爆発的な力の奔流。屋根から雪が
泥の傀儡がぐじゅり、と足を踏み出した。瑞礼との距離が詰められる。 畳の上を這うその音は、生き物の歩みというより、崖崩れの土砂がゆっくりと流れ落ちる終焉の音に似ていた。ひび割れた白い皮膚の亀裂から、黒い雫が絶えず滴り落ち、磨き上げられた広間の床を汚濁で冒涜してゆく。「……来るな」 瑞礼は後退るが、背後は屈強な兵たちの肉壁に阻まれている。逃げ場はない。 傀儡は、その虚ろな眼窩を瑞礼に向けたまま、ゆっくりと腕を上げた。 指の形は熱で溶けかけた蝋のように醜く引き伸ばされている。それが、愛し子を求めるような狂おしい慈愛と、死の間際に生者を道連れにせんとする浅ましい渇望がないまぜになった緩慢さで、瑞礼の喉元へと伸ばされた。「……あ、ぅ……」 傀儡の喉の奥から漏れる湿った呼気。 そこには、腐葉土と鉄錆、古びた白粉の匂い。そしてかすかながらも確実に、緋宮から剥ぎ取られたばかりの、新鮮な神気の香りが混じっていた。 瑞礼の全身の毛穴が、生理的な嫌悪と恐怖で粟立つ。 怖い。だが、その恐怖は猛獣に襲われる時のそれとは違う。 この泥人形の中に、かつて自分と同じように『花嫁』として選ばれ、期待された。 だがそれは村や里の誰にも愛されずに捨てられてしまったのだ。彼女たちの成仏できぬ嘆きが渦巻いている――そうとしか思えなかった。 だが、緋宮は。間違いなく彼女たちを愛し、大切に扱ってきたはずだ。「さあ、抱いてやれ」 秀衡が扇で口元を隠し、愉悦に目を細めた。「お前たちと同じ仲間だ。その温かい血肉で、冷え切った泥を慰めてやるがいい。……それとも、生身のぬくもりに嫉妬して、その喉笛を喰らい尽くすか?」 その言葉が合図となった。 傀儡が、瑞礼の肩を掴んだ。 ひやりとした死の感触が衣を通して直に皮膚へ伝わる。 重い。ただの泥の質量ではない。数多の怨念を凝縮し、鉛を
広間の最奥。御簾と几帳によって隠されていた闇が、腐汁が滴るような音を立ててゆらりと揺れた。 そこから這い出してきたのは人ではない、異界の気配だった。 最初に鼻をついたのは、澱んだ沼の底を掻き回したような饐えた腐敗臭。そして鉄錆の酸っぱい臭気。 瑞礼は思わず袖で鼻を覆おうとしたが、その動作が凍りついた。 腐臭の奥底に、結晶のようなある匂いが混じっていたからだ。 雪解けの水。深い湖の底に眠る静寂。雨上がりの森のような、清冽で冷たい香り。 それは間違いなく緋宮がその身に纏っていた、あの愛しい気配そのものだった。「緋宮、さま……?」 思わず名を呼びかけた瑞礼の目が、暗がりから現れたその姿を捉え、限界まで見開かれた。 心臓が早鐘を打つのを忘れ、呼吸すら細胞のひとつひとつに拒絶される。 そこにいたのは、緋宮ではなかった。纏う気配は緋宮以外の何者にも思えなかった。 それはあまりに残酷で、あまりに冒涜的な、龍神の成れの果てだった。 銀の髪に見立てたのであろう無数の白糸が、泥にまみれて濡れそぼり、骸にまとわりつく湿った蔦のようにへばりついている。 眼窩に嵌められた二つの玻璃玉は、あの美しい金紅を模していながら、光のない濁った黄土色――死人の眼をしていた。 高貴な神を人の手で再現しようとして、決定的に穢してしまった失敗作。陶器のように白い皮膚は、所々がひび割れ、その亀裂から黒い汚泥が絶頂に達した蜜のように、あるいは膿のように滲み出している。 そして、瑞礼は見てしまった。 その泥人形のねじれた首筋に埋もれるようにして――古びた女物の簪が、泥の肉に深く食い込んだまま、錆びついているのを。「……あ、あ……」 瑞礼は、這い寄る悪寒に、突き動かされて後ずさった。 その泥の傀儡は、虚ろな顔を瑞礼に向け、喉の奥でごぼりと湿った音を鳴らした。 言葉ではない。けれど、幾十、幾百の女た
広間の空気が、音を立てて凍りついたようだった。 藤原秀衡の放った言葉は命令というよりも、逃れ得ぬ呪詛のように瑞礼の鼓膜を震わせた。「龍神をこの地に繋ぎとめる、鎖としてな」 その響きは、瑞礼の胸元で震える小鈴の硬質な音色と重なり、心臓ごと魂を鷲掴みにされたかのような錯覚を覚えさせた。言葉がそのまま実体を持った冷たい鎖となり、瑞礼の首筋から全身へと、じりじりと巻き付いていく感覚。 ――鎖。花嫁。 その単語が、瑞礼の脳髄の底に沈殿していた記憶を強引に引き摺り出す。遠い飛鳥の夢。都の石造りの井戸の底。白衣を纏い、胸を貫かれた瞬間の、あの熱い冷たさ。己の血管から溢れ出した血が水に溶け、真紅の鎖となって、愛する龍を都の暗闇へと縫い止めた、あの鮮烈な死の記憶。 まさか、数百年の時を超えたこの北の最果てで、再び同じ言の葉を投げつけられようとは。 瑞礼は目の前に座る覇者の貌を見上げた。 秀衡の瞳は、瑞礼の動揺、恐怖、そして絶望さえも慈しむように細められている。周囲に控える兵や家人たちの視線が無数の針となって、瑞礼の肌を刺した。好奇、侮蔑、あるいは神に捧げられる供物を見るような、得体の知れぬ畏怖。それらの視線が混じり合い、じりじりと皮膚を焼く。「……一体、何を」 喉が張り付くほど乾いていた。それでも、言葉を紡がねばならない。「わたしに、何をさせるおつもりですか」 秀衡は巨体を揺らしながらゆっくりと立ち上がり、瑞礼の前へと歩み寄る。伸びてきた指先が、瑞礼の顎を無造作に持ち上げた。その指は氷のように冷たく、そして血と鉄の匂いが染み付いていた。まるで、これから壊す美しい細工物を検分するような、不気味な手つきだった。「何を、だと? 問うまでもあるまい。お前自身が望んだことではないか」 秀衡は歌うように囁く。「龍神を連れ戻しに参った、と申したな? 要は片時も離れず、共に在りたいのであろう。ならば、そのための最上の役目を与えてやろうと言っておるのだ。猛き神をこの屋敷に留め置くための、美しき花嫁――すなわち、鎖としてな」 瑞礼の頬